ウソの為に命を懸ける者はいない

ある日、聖書の解説をする人の話を
聞いていると
「自分でウソと分かっている事に命を懸ける者はいない」
という内容が話された。

初めは「何のことだ?誰が命を懸けたのだ?」
と、意味が分からなかった。

それはイエスキリストを信じて
その内容を伝道した人々。
特に12使徒と呼ばれる人達や
初期の弟子たちの事だと分かった。

信じるとは何か?

クリスチャンとして「信じる」とは
何を信じる事なのか?

それは
イエスキリストは十字架に付けられ
●死んで
●墓に葬られ
●3日後に蘇り
●今も生きておられる

これを信じる事が「信じる」という事で、
仏教系の宗教を行っている時には

「こんなことがあるわけないだろ!」
「クリスチャンという人達は頭が悪い人なのか?」

等と本気で思っていたのだが、
その私が今は聖書を額面通りに信じている。

死に直面しても主張を変えなかった信徒

私が聖書を信じる様になった理由の
一つは「念力は誰でも持っている」
という事が明確に分かった事だが、

更に確信が深まった事として

使徒たちが
死に直面しても主張を変えない

という部分で、黙示録を書いたヨハネ
以外は全員処刑されている点だ。

元々は命が惜しくて惜しくて
逃げたり隠れたりしていた使徒たちで
命を懸けて「教えを伝える」等という
人物像では全くなかった!

それが復活を目撃してからは
まるで別人の様にハッキリとシッカリと
延べ伝えている。

それは、命に関わる場面でも同じで、
黙示録を書いたヨハネ以外は全員が
主張を変えないために死に至っている。

ヨハネも真実を述べ伝え、その主張を
曲げないために島流しにあっている。

その事が聖書の真実味を
物語っているという事だ!

何故ならば、
ウソと分かっている主張に
大切な命を懸ける事は誰も出来ない!

そして彼らは、復活を信じている!

それ故に私は聖書を信じている!

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